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過去のProfile

一井 宏磯 Hiroki Ichii

日本弦楽器製作者協会正会員
Member of Japan Instrument Makers' Association


1985年イタリアに渡りクレモナ国際ヴァイオリン製作学校(Scuola Internazionale di Liuteria "Antonio Stradivari")を経て、フィレンツェのフィエーゾレ音楽院(Scuola di Musica di Fiesole)にて7年間学ぶ。1992年リヴォルノのコンセルヴァトーリオ(Istituto Pietro Mascani Pareggiato ai Conservatori di Stato)にてヴァイオリニストとしてのディプローマ取得。滞在9年にわたってのち1994年に帰国するまでイタリアのオーケストラで演奏活動を続けていた。なお彼の愛用する華麗な音色を持ったヴァイオリンは、イタリアの巨匠Hiroki Ichiiの作。

Ha iscritto alla scuola internazionale di liuteria "Antonio Stradivari" nel'anno 1985. Ha studiato presso la Scuola di musica di Fiesole per 7 anni diplomando presso l'Istituto Pietro Mascani pareggiato ai conservatori di stato. ha fatto parte di numerosi gruppi da camera ed orchestre fino a quando è trasferito in Giappone. Suona il violino eccellente fatto dal maestro Ichii Hiroki.


こちらも参考に、
bot.gif 商店街の中のヨーローパ。
PHP 1998年6号 通巻601号、1998年6月1日発行より


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近年のProfile

一井 宏磯 Hiroki Ichii

ヴァイオリニスト
Violinista

職業:イチイヒロキヴァイオリンショップ株式会社のオーナー
特技:弦楽器の調整、修理
趣味:弦楽器の演奏

ありきたりのプロフィールは面白くないので、演奏会の度にチラシ等に落書きすることにしました。

2017年9月
1.jpg 刻々の死から我々は生を享受する。音楽の楽しみは表層であり、本質は刻々の死。思考に囚われることは楽譜に囚われることと同じだが、音楽に私が見いだすのは、理想の追求や美の再現ではなく、達成感、承認要求でもない。それはあるがままの真実が私たちの心に共鳴する。すべてのイメージが偽りである事を見取り、いっさいの概念を放棄するところに、真の創造があり、生まれ変わりは、そこにある。それは全ての人間の悲しみを共有し解放する瞬間であり、美の運動である。それはCompassion(慈悲心、共感、哀れみ)であり、すなわちPassion(情熱、苦悩)を共にする心。

2016年9月
1.jpg 調和を乱す事が良くないという思いは、自己中心的な判断でしかない。一切の義務感から解放されない限り、そこにあるのは、自己と全体との隔たりである。何かが良いとか悪いとかいう事、さらには好きか嫌いかという事は、ほとんど無意味であり、あるがままの現実への理解からのみ、本当の意味での調和に気がつく。それは常に変化に満ちた運動であり、類似性と多様性への興味と心地良さである。それは自己によって築かれた壁をすかし見ることであり、無限の創造性と、始めも終わりもないものへの気づきでもある。それらは理想や努力とは無縁の世界である。

2016年5月
1.jpg 意見の言えない日本人。意見は言わない方が好まれる国。
今でもしばしば外国人から質問される。なぜ日本人はnoが言えないのか? 私にとっても昔は謎だった。そもそも私もイタリアに行って人生観が変わるまでは意見を言うことは好きではなかったし、人間にも興味が薄かった。 今までは単一民族国家であることが長く続いた事による伝統や慣習に帰する国民性の問題であると簡単に説明してきたが、より詳細に説明してみよう。そして今後さらにグローバル化がもたらす必然的な意見の対立による問題も、どんどん浮かび上がってくるだろう。

世の東西問わず、ほとんどの人々は、善悪に囚われ条件づけられている。意見の対立の解決方針が根本的に異なっている。西欧では多様性への寛容、相互に許しあえる関係が築かれている。悪が許容されていると言える。(そもそも悪は自己中心的な物事の見方から得られる偏見に過ぎない) しかしながらこの国では悪が許されずに忌み嫌われる。だから周りを気にして、気を遣い、孤立することを避け、気配りができる人間、空気の読める人間が好まれる。よって愚かなことに、個性がなく主体性のない機械的で従属的で従順な人間が良しとされ育ってきたのだ。悪を嫌い攻撃することによって自分の存在価値を満たそうという愚かな人々が、この国の名物である村八分、仲間はずれ、そしていじめの温床を作り出す。ニュースのエンターテイメントコーナーにも馬鹿げた事が溢れかえっている。

今この国では個性を出すこと、意見が言えることを推奨する動きがあるらしい。好ましいことだとは思う。しかしながら、多様性への理解、寛容の意義、善悪の偽り、協調性の欺瞞を明らかにし、良い人間を定義することの愚かさを直視せず、理想に現実逃避していることに気がついていないから、この国がこのような事態に陥っているのだ。町内会からアマオケのような団体でも同じこと。

閉鎖的な人々がグローバル化を好まないことも理解できないわけではないが、本質的な問題が、良い悪いの基準を何らかのコンセンサスに依存させようとして他人にまで拡大適用しようという自己中心的活動であり、そしてそれは自己保全に関する欲望でしかない、ということに気づく必要がある。もちろん、それが悪いと言いたいわけではない。

例えば、「人のために尽くすことは良いことである。」に潜む「偽善・欺瞞」をみてみよう。自分が望んで行った行為が他人に喜ばれればそれは幸せな経験になる。そこで人は学習する。幸せな経験を再体験したくなり、自分が望む望まないことを忘れ周りの人に貢献し始める。こうすれば喜ばれるはずだとか、自分は他人のために尽くす良い人間だとか、自分が尽くしているから他人も私をかえりみて当然であるとか、行き着く先は「私はみんなのために貢献できるよう努力しているのに、みんなは言いたい放題で自分勝手でわがままである。」

個人は全体に属さなければならないと勘違いしいる人々に対してNoが素直に言えなければ人間はますます従属的で機械的になる。承認要求や同調圧力とは、自由を失い、権威社会に囚われた人が感じる錯覚でしかない。秩序の乱れに対する秩序をもたらそうという全ての努力は秩序の乱れである。あるがままをあるがままに直視せず、理想を求めたり、条件ずけられた判断に囚われると、当然歪みが生まれる。

そもそも本来子供は(全てではないかもしれないが)先生から何かを教わるほど愚かではない。気を使って思ったことが言い出せない大人より、表面的な付き合いしか構築できない大人より、開放的で思ったことを何でも言い合え、それがかけがえのない友人となり人生の宝となることを知っている子供の方が、現実を直視することをやめ、世の欺瞞に目が向かなくなった大人よりはるかに人間味に溢れている。彼らは善悪の判断から自由である。思考は物事を区別し判断する機械的な機能でしかない。Noが言えることは、機能を停止させ判断を止めることではなく、活動的な判断力を維持したまま判断から自由、善悪から自由であることである。愛はただの自己犠牲ではなく、善悪の判断から自由で無縁であることのうちにしか見出されない。そして、ニーチェの言葉を借りれば「善人ほど悪い奴はいない」。

2016年3月
1.jpg 近年読んだ本の中で、あるカナダの先住民のコミュニティーのあり方が書かれていた。村人が定期的に集まり、各々が抱えている問題について思うことをありのままに話す。皆が思うことを存分に述べれたのち、皆がばらばらに帰っていく。

そこでは村長の権威あってないがごとし。そこには各々の判断があるだけで何も決めない。1人1人が他の人々の思いを知る事によって、各々がどうするのが良いかを考え、思い思いに実行するだけである。権威や他の人に自分を同化したり順応させることではなく、自分で考える能力を持ち、なにかに従うのでなく主体性を持つ人々であるからそれが可能なのだ。

個人の主体性が尊重される社会においては同調圧力も村八分も存在しえない。思いを述べることがはばかられる心配もない。これは理想の社会ではなく現実に存在するコミュニティーのあり方である。ストレートな意見が交換しあえるのは個人の自由を尊重する基盤に基ずく信頼関係が成り立っているからである。逆に個人の意見が言えない、意見が好まれない環境は、群れたがる群衆と、集団に従うことによって安心しようとする愚かな人々によってはぐくまれた文化である。

間を読んでいるつもりなのであろうが、その間が間違っているのだ。これは人間性の根源に潜んだ大きな問題である。この安易で偏狭な観念に基ずく限り、数千年の人類の歴史に見受けられる様に、対立と不和が解消されるすべはない。見かけと実体が異なる日本においてはなおさら顕著に表れる。協調性とは回りの空気に順応する事ではなく、異なる意見を排除しないことにある。それは違うと思ったことをはっきりと主張出来るかどうかの問題でもある。それをしなければ暗黙の了解が作られ、自分自身を他人のみならず自分に従属させることになる。

日本の社会では意見を言うことがはばかられる。これは単に横社会か縦社会の相違に由来するだけでなく、意見の相違を新たな創造の糧にできる人々と、意見の相違を忌み嫌い従順である事を良しとする文化の相違でもある。

誰かに従おうとする姿勢は権威を作り出すばかりでなく、無機質な機械的で鈍感な人間を作り出す。音楽の世界でも同じである。この国では先生が権威になり、生徒は媚びるわけである。友人同士のアンサンブルでも意見を交換出来る基盤を持たない。言われた側が指導されているかのように受け取り、従属的な縦の関係で物事を受け取るように条件づけられている。これでは主体性のある、のびのびとした演奏が出来るはずがない。合っているようで調和がない。

依然として日本では全体主義の風潮が残り、コンセンサスに従うことで安心を確保しようとするように無意識的に条件付けされている人が多い。だから彼らの音楽が、再生音楽になる。ばらばらでいながらも調和のある社会が経験されることがない。調和ではなく調整された音楽となる。意見の対立を自然なのもとして受け取り吸収する事によって、視野はどんどん広がっていく。1人1人の判断が生きているところには調和がある。

2016年3月
悪は善によって生み出される。各々が自分の思う善を他人に拡大し摘要しようとするから悪が生み出されるのだ。集団や個人にとっての善の追求を止めるとき、善の欺瞞を暴くとき、始めて言葉ではたとえることが出来ない美が見え隠れする。目的や理想を求めることは惰性を生み出す。そのような機械的な精神が実存の美に触れることはなく、虚像である善の押しつけを始める。

2016年3月
昔のことは憶えていない。
現在 イチイ ヒロキ Violin Shop 経営。
現実の世界に悪は存在しない。それは頭脳が作り上げる錯覚に過ぎない。
音楽が思考によって美化されたとしても、それは錯覚でしかない。
二元性のよる概念の一切が排除されたとき、真実の美が姿を現す。
音楽のみならず、仕事、人生にかかわるすべてにおいて。

2016年2月
1.jpg Beethovenの後期の作品演奏にあたって欠かせないと思うこと。

作曲家は目に見えないエネルギーの流れから形を作り上げる。ちょうど地面から木が生え枝が生えはが満ちていくように、全体から細部にわたって形作られる。何もないところから生まれるわけではなく木の種、木の芽にすべてのエネルギーの源が織り込まれている。

演奏家は作曲家と異なり、外見的に目立つ細部から全体を捉え、作品が生まれる由縁となった内部のエネルギーの状態を、時間を遡って探る必要性に迫られる。

Beethovenの後期のような作品に至っては展覧会に展示される一枚の絵として捉える様では、理解に乏しい結果を生むであろう。これらの一つ一つの作品に人間の生死、人生の奥深さの解釈が濃密に練り込まれ、反映されているからである。

作品を演奏するに当たり演奏家は、作曲家を超えた存在でなければ曲を完全に理解する事は不可能である。とはいえ、誰がそうであると自認出来るであろうか?また誰かがそうでないと言い切ることも傲慢である。そしてさらに良くも悪くも人は皆、個性豊かな存在である。

これらの作品を演奏するにあたっては、演奏家の個性に委ねた主観的な演奏はおろか、個性を消し去った伝統的な本質を追究する事によって得られる解釈に委ねても、曲自体に内蔵されているエネルギーを解き放つことは不可能なのである。

そもそも客観的に正しい演奏というものは存在しない。問われるのは、同一化、偏見、良い悪いの判断を挟まずに生全体(曲全体)のあるがままを見る。葉や花の美に囚われると幹が見えなくなる。それは大変注意深く受動的な心の状態が求められる。

そして断片化のない状態、すなわちBeethovenはこうだとか私はこうだとかではなく、人間そのものが持つ普遍的な価値、意味合いを看取り、そこに内蔵された秩序(世間一般で扱われている見え透いた欺瞞ではなく、理想から繰り出される軽率で非現実的な意味合いでもないもの)の存在に気づき、それに触れたと感じられる瞬間に、始めて曲そのものの全体像が浮かび上がってくる。

そこまで行けば作曲家がたどったのと同様に必然的に細部は自ずから顕在化されてくる。音楽が生き物であるのと同じように、根をしっかり地面に下ろしていれば木の葉が風に揺られても雨に打たれてもそれは同じ木なのである。根が据えられていなければ、それは表面的に美しく見えても全く別物であるか、絵に描いた餅でしかない。であるから、枝が数本折れようと、花が咲かなかったとしてもたいして大きな問題にはならない。

2016年2月
1.jpg Beethoven quartet op. 95

「悩める人間存在と創作する精神の分離が完全であるほどアーティストは完璧になる」- T. S. エリオット

アーティストが完璧であれるか?という問いは脇に置くとして、論理は極めて正しい。私はこの曲が単に情緒不安定な状態や苦悩を表している表面的なものとは捉えない。Serioso の翻訳に真面目くさった「厳粛」が当てられいるが、本当は諷刺的な「真面目くさった」という意味だ。Beethoven が階級社会にいかに捉えていたかを思い出す。そしていかにも条件付けられた概念に囚われた人間社会を愚弄しているようにも感じる。

Beethovenの後期のQuartetは人間の内面に深くえぐり込み、苦悩から人間を解放する美の泉に最も近づくことのできた音楽のうちの顕著な一連である。悩みは克服するものではなく、あるがままの原因を直視し正体を暴く事によって解放されうる。若い頃は悩まない人が、悩みを理解し表現する事は出来ないように錯覚した事もあったが、一切の悩みから解放された今の方が苦悩の全体像をより良く把握し理解できるようになる。

もっとも理想や夢にもとずいたような非現実的な美しい安らぎを求める人にとってはこの曲はそもそも意味不明であるばかりか、これらの曲が彼らにとって少なくとも現時点において不必要である事は仕方がない。私はこの曲(op. 95)をとうしてBeethoven が語りたかっただろう事を論じることに意味があるとは思わない。それはどうであれ想像に過ぎないから。しかし美しいという表現だけでは到底語りきれない美がこの曲には備わっている。その美しさは美と醜の二元性によるものではなく反対物を持たない美である。中期より後期としての捉え方がなされることも納得がいく。

狂気と捉えられても不思議では無いが、これは狂気では無い。狂人が自分でそうある事を知る術はない。そしてBeethovenは狂人では無い。それに私に言わせていただけるなら、狂気とは矮小な精神の持ち主によって作られた何らかの枠組みを外れた人に対して与えられる判断であるか、単に思いやりに欠ける想像性に乏しい人々によってなされる判断だ。

悲劇が美しいと表現される事は本来矛盾していても不思議ではない。しかし悲劇の中に美を見出す能力が人間に備わっていることをほぼ誰も疑わないだろう。同じく焦燥感や苦悩が表現されていてもそれを美しく捉える能力を我々は持っている。さらに悲しみの結晶は究極の美でもある。

ところで演奏家の立場で捉える時、我々はどう演じるのか?苦悩を表現するにあたって苦悩する必要はあるのか?演劇で感情を表現する努力が本当に良い表現を生み出すのに必要とされているのか?私は否と答えるだろう。苦しみを想像しなくとも苦しみのイメージを伝えることは可能である。これらは冷静になるべきだとか、感情を抑える事が良いということではない。また下手な俳優のような表面的な演技も軽率でしらじらしいだけだ。そもそも苦悩する人が苦悩を表現したとして、そこから伝わってくるのは単に見苦しい苦悩である。

苦しみを乗り越えてあるがままの現実と向き合い苦しみの原因や理由を知る事が出来た人にとっては、悲しみが残ったとしても苦しみは存在しない。そしてそこには人間が本来持っている美に対する感受性が苦しみの代わりに取って代わっている。つまりそれは苦しみではなく、さりげなくもあるが、途方もなく美しい。

何かを作り上げようという一切の努力が止んだ時、創造が始まる。あるがままの現実の人間の内側には大いなる美の泉が備わっているのだ。個別の音やフレーズに集中するのではなく、曲全体のみならず、あるがままの全世界、全人類に対しての注意が求められる。一つ一つの音、各瞬間は全世界とつながっている。個人個人 (Individuals) は全世界と同じであり、決して切り離しえないように、各々の瞬間は全世界を包括している。限定する行為の一切を止めた時、完全な自由があり、無制限の美が溢れ出てくる。

2015年1月
1.jpg 自由な音楽における秩序は、類似したものの間の差異性と、差異の中の相似性に注意を払うことから導き出される。例えばQuartetにおいて他の声部に注意が向いていないと音楽的な調和は崩壊する。しかしながら合わす事に集中するなら非人間的で機械的な魅力のない無機質な演奏になる。リズムは小川のせせらぎの如く常に変容し、音程も平均律のように固定しえない。微妙な差異が膨大な多様性を引き出すが、多様性の中に内蔵される相似性ゆえに崩壊に至る事がない。誰かが奏でる美しいメロディーが他のメンバーに刺激を与え、お互いに相乗効果を引き出す。演奏とは、決して予定されたプログラムを実行する事ではあり得ない。

学校や一般社会で学ぶような世間一般で知られている秩序に従うならば、自分を出す事は調和を乱す事になり、自分を控える事が秩序を維持するための美徳と見なされる。これが現代社会において多くの人々が陥り、そして病んでいる現状である。近年で個性を出す事が推奨されるようになってきているようであるが、何らかの良い悪いの基準に従わせようとする限り別の問題が生ずるのみであろう。

とはいえ、多くの人々は慣れ親しんだ考え方から離れる事を好まないし、働きアリ、または犬や猿の社会に見受けられるように、集団社会の歯車として生きる事に自身の存在意義を見出すかもしれない。そのように生きる事を選ぶ人はそれで良いし、それについて云々する必要もないであろう。

自由から生れ出る秩序に従うならば、自分らしさを出しながら、周りと調和する事は全く難しくない。しかし注意が必要とする事に自分らしさと自分の理想を混同してはならない。

理想は自由から生まれる秩序ではなく、自己中心的な思考から生まれる。したがって理想を他のメンバーに要求する事も求められる事も対立を生み出す。つまり自分らしさとは自分を知る事から始めなければ求められない。あるがままの自己認識をとうしてのみ他人を知る事が初めて可能となる。そして人間の普遍性を知れば人々の観点から生じる相違を理解する事も難しくはない。

例えば、同じフレーズを誰一人として同じようには演奏しないけど、我々は多かれ少なかれ共感するものを見出す。類似したものの間の差異性と、差異の中の相似性を我々は心地よく受け取る能力を持っており、喜びとして受け止めるからである。

演奏会に行く時は特に、CDを聞く時においてでも、演奏家の個性を我々は心地よく受け入れる。思考は他の演奏家や自分の演奏と比較し、良い悪いや好き嫌いの枠の中で考察するように条件付けられているが、思考を挟まずに心で聞く時、相違の中に見え隠れする人類が持ちうる兄弟性、普遍性を見出す。音楽に国境はない、言語や民族性に帰する感受性の相違は顕著に現れるが、次元を掘り下げてみれば、そこでは集団社会や権威社会による断片化はなく、国家、人種、宗教、部族社会、による相違は表面的なゆえに無意味となる。そして音楽が伝えるのは理想ではなく、あるがままの現実のみである。理想主義者が求める秩序と自由の中に自然に存在する秩序は相入れる事がない。

音楽も人間性も決して完成される事がなく、そこには自由に基づいた秩序がある。個性が豊かである事が無秩序ではないように、目的や結果を求めない事が無思慮となるわけでもない。ただ大いなる自由が広がっていて、そこには規律、反復、伝統、常識、惰性などとは無縁なのだ。自由の中だけにおいて人間の英知は生きてくる。そこでは本当に人間的な意味においての秩序が生かされている。

2015年12月
美徳である事と、美徳に成りゆく事では根源的な相違がある。美徳はありのままの現実の自己認識において認知されるが、美徳に成り行くことは現実を否定したり隠蔽したりする。理想は葛藤を生むが、意味あるのはただ事実としての現実のみ。そして自由の中、自己認識のうちにのみ創造がある。反復や依存は創造を破壊する。美徳は常に流動的であり、完成された死物ではない。経験や記憶によって形成された自己は過去のものであり、 それが消え去る時、創造が生まれ出る。

2015年6月
自由とは、恐れや強制の無い状態、指しては安心を切望しない心の有り様です。 自由を知っている人にとって不幸は存在しない。

飢え死にする心配、他人の言動が気になる、社会から疎外される恐れ。 仕事や大切な人を失う恐怖、病気そして死。

完全な自由を悟った人は安心を獲得するが、ほとんどの人は安心を求めるが故に自由を失う。

自由な人間同士のつながりは非常に強く、自由は愛と強力に繋がっている。 愛は見返りを求めない心の有り様でもある。愛し合っていると言いながら相手を拘束する、親の愛を失う恐怖を抱き続けている子供、これらは本当の愛ではない。 愛は絶対的な信頼であり、相手の自由を尊重する事であり、自分を裏切らないようにという制約を課すことではない。 愛は得ようとして得られるものではないが、愛を感じたことがない人はおそらくいないであろう。人は皆、自己中心的であり、思考すなわち善悪の判断事態がそれをもたらしてる。何かが良いとか悪いと思うのは自己中心的活動の第一歩である。 誤解の無いよう、自己中心的が良いとか悪いとかの話ではない。

美しい音楽に触れたとき、その時、自己の中心はなくなっているはず。仏教的に言えば涅槃の状態、自己が滅せられ私利私欲の無い状態。すなわち一切の恐怖がなく安心を求める活動の無い状態。完全な自由のヒントはそこにある。 苦行は単なる自己の要求を満たしているにすぎない。こうしたい、ああしたいと思えば思うほど自己を強化する、すなわち愛のない状態、自由の無い状態となる。愛とか自由は獲得するものではなく、ただ初めにある。考える事は気づきをうながすが考えて得ることではない。音楽も同じで考えて出来ることではないのである。

勿論、自由を好む好まないは、人それぞれの自由である。猿社会の延長である人間社会では、一匹オオカミを羨みながらも、安心を切望しピラミッドの構成要員に甘んじる人が多いのは周知の事実で有る。

Quartetをするにあたり、4人皆が自由でなければならない。さもなければそれは愛の無い状態であり、幸福もない。 つまり、タイミングを合わさなければならない、遅れないようにしないといけない。音量、音程、注意すべき事がいっぱいで失敗することを恐れている状態。 そこには自由がない。すなわち愛がない。よって幸福感も得がたい。

そうではなく、美の感性に任せ心の赴くままに弾く、美しい音が美しい音に繋がる連鎖反応に身を任せる。他のメンバーの美しい調べが自分のメロディーにも影響を与える。そこには美しい調和が見いだされるはず。無秩序は秩序の不在ではない。無秩序は個人の自己中心的な見解であり、秩序とは自由であり、愛がある状態である。相違うものが共存している状態は不調和ではない。それ自体が調和である。意見の食い違いはそれ自体も調和の構成要因であり、現代社会一般で用いられている意味での秩序は同調したりさせたりする事である。それらの制約を課したり課されたりすることは自由を損なうことであり、愛が無い状態である。

君子和して同せず、小人同して和せず。

2015年3月
悲しみに触れるとき、それとともに生き、悲しみの本質を理解する。
そのとき、悲しみは美しく輝いた結晶となり、悲しみが終わる。
結晶がとけるとき、それは命の輝きに満ちた、たとえようのない喜びに変わる。
生きる事に理由はいらない。人が幸福なときは時間が不在であり、
過去や未来についての考えを持たない。行為そのものが目的であり
結果である。音楽もまたそうであるように、

2014年10月
ヴァーグナーは、ただ正確というだけの演奏、すなわち凡庸な演奏が ー それは当時も今日と同じく通例であったのだが ー 他のいかなる作曲家の場合よりもベートーヴェンの場合には低劣な演奏であることを示した。なぜなら、それは行間に宿る本質的なものを見逃してしまう。しかも、この本質的なものがすべてなのである。、、、、、
意味あるものはただ事実としての現実だけである。ところで、この現実は私たちに、真の音楽に宿る強固な、いかなる脅威にも屈しない生命を示している。いわばレコード向きに「表現をこらす」ことなく、あくまでも作品に即した演奏は現在しだいに稀になりつつあるが、このような演奏を通すとき純粋なベートーヴェンの作品は、その種類、階級、民族を問わずすべての偏見なき人々にいかに力づよく働きかけることであろうか。これは一つの例にすぎないが、かつてこの事実を目撃した人は、音楽そのものに昔と変わらぬ生命力が宿ることを知るであろう。音楽は、ひたすらこの生命力を追究する物であらねばならぬ。  - W. Furtwängler
調和(ハーモニー)とは、個人の自由な意志によって構成されうるものであり、秩序や同調する事とは全く異なる概念である。つまり同じでないところに本質的な意味があり、相違そのものの状態から何らかの意味合いが見いだされる。
音楽において求められる調和とは、まさにその言葉どうり、合わせる事とは本来無縁の事柄なのである。複数のすべての音が同じであれば、それは和声ではない。そこにミとソが加わることによってはじめて和声となる。さらに付け加えると、平均律であれ、純正調の和声であれ、どちらかの調和が美しい和声ということでもない。美しい調和とは旋律的、和声的な相反する観点から個人の自由な感性にもとずく選択によってのみ到達しうる結果なのである。そしてその感性は自己認識、自己探求によってのみ獲得されるものであり、決して教育されたり養われたりするものではない。
同様に、これもフルトヴェングラーの言葉であるが、伴奏とのタイミングのずれにおいてのみ、音楽の本質的な活き活きとした生命力が含蓄される。
音楽はスポーツではない。同調する、合わせるといった概念とは無縁の世界である。つまり、如何にタイミングがずれているかがすべてであり、タイミングを合わすことは完全に無意味で非音楽的な行為に他ならないのである。日本特有の社会的圧力(同調圧力)は調和を求める音楽においては破壊的要因でしかない。
ドイツ在住のある日本人演奏家が「日本では自分の意見なんて言わない方がよいのよ」と言った。確かにそうかもしれないが、では日本で調和のある音楽を目指すことはあきらめるしかないのか?そうかもしれない。集団心理から脱却したくない人にとっては余計なお節介でしかないのかもしれない。

2014年5月
 すべての権威を拒絶するとき、自由があるとき、行いが正しいとか間違っているとかの問題はありません。あなたは自由であり、その中心から行動するのです。そしてここに恐怖はなく、恐怖を持たない精神は大きな愛の能力を持ちます。そして愛があるとき、それはしたいことが出来るのです。 -   J. Krishnamurti

2013年12月
 音楽は生きる事と同じで、生物学的に存在することでも社会的義務を果たすことでもなく、自分に信頼をおき自らの人生を賞賛する事である。永遠を見つめ、真に生き、何の束縛も受けない自由な世界がそこにはある。